221年
劉備が蜀の皇帝に即位

ユリウス暦で5月14日。建安26年(章武元年)4月6日です。
劉備(劉玄徳)は、三国志の英雄ですが、小説『三国志演義』での義にあふれた人物と実際ではかなり異なるという説もあります。
ただ魅力ある人物だったのは間違いないでしょう。貧困から身を起こして、各群雄の間を転々として、最後には小国とはいえ皇帝にまでなったわけですから。
劉備自身は「漢」の皇帝に即位したのですが、これは曹丕が漢の献帝から禅譲を受けたことで皇帝となり、魏を興したことにあります。献帝は殺されたと聞き、自分が漢の皇族であることから、後継として漢王朝を守るという名分のもとに皇帝となったわけです。皇族と言っても【前漢の景帝の第8子、中山靖王劉勝の庶子の陸城亭侯劉貞の末裔(というのが本当だったとしても)】ずいぶん離れた皇族です。反対した臣下を殺していることから、大義の建前はともかく、自ら皇帝を望んだのかもしれません。
ちなみに献帝は殺されてはいません。禅譲した前王朝最後の皇帝を大事に扱うのは新王朝の大義でもあるからです。
漢の皇帝になったと言っても、実際には魏が中央政権。三国志として同列に扱われてますが、実際の領地の益州は、魏に比べて非常に小さいわけで、政治制度的にも一国を為すものではなく、さらに形式的にも禅譲を受けた魏が正統。のちのち劉備正統論が出たため、評価は高まったわけですが、事実を完全にひっくり返す事はできず、益州の土地名から「蜀(蜀漢)の皇帝」という認識で現在に至っています。
即位してからわずか2年あまり。義弟の張飛を失い、先に関羽を殺した呉に対する報復の戦争(夷陵の戦い)にも大敗し、223年6月10日(章武3年4月24日)に没しています。決して幸福とは言えなかったでしょう。

ウインドウを閉じます

総合年表

総合年表ブログ