紀元前202年
劉邦が皇帝に即位

中国の「漢民族」の祖国とも言えるのが、漢王朝。
漢を興したのが、高祖劉邦でした。劉邦は沛郡豊県中陽里(現在の江蘇省徐州市沛県)の出身。父は劉太公、母は劉媼といい、長男は劉伯(諱は不明)、次男は劉喜(字は仲)、三男が劉邦でした。劉邦の字は季。両親の名が太公・媼、子の字が兄弟順を意味する伯・仲・季と、明確な固有名も付けない農民階層でした。秦王朝の時代。彼は巡行中の始皇帝を目撃して、「男なら、ああなるべきだ」と言ったという。後のライバルの項羽は「取って代わるべし」と言ったので、よく対比されます。
彼は「侠者」となり、品はなく乱暴なものの、なぜか多くの人に慕われ、亭長という末端の役人となります。咸陽の工事のため、人夫をつれていくことになりますが、過酷な事業を恐れて人夫らは逃亡。劉邦も逃亡して隠れてしまう始末。
その後、全土で反乱が起こると、沛の役人だった蕭何は、県令の相談を受け、人気のある劉邦を招いて反乱に加わるべきだと進言。県令は拒絶するも、住民は県令を殺して劉邦を受け入れ、反乱勢力の一つとなります。彼は江南から上がってきた項梁の軍勢に加わり、やがて項羽と並ぶ勢力となりました。
項梁の戦死後、反乱軍のトップに立った項羽は、函谷関を目指し秦軍と正面から激突。それに対し劉邦は、迂回して武関から首都咸陽へ入り、秦王三世子嬰をあっさりと降服させました。彼が殺戮や略奪を行わなかったことも敵の評価を得たわけです。しかしこれが項羽の疑惑を招き、釈明のため、張良と樊會を連れて項羽と鴻門の会を行います。殺害の危機を逃れた彼は、項羽政権樹立で「漢王」とされ、辺境の漢中の地へと送られます。これが「漢」の原点です。
しかし項羽が東へと去ると、秦の拠点だった豊かな関中へ進出し、以後、項羽との抗争が繰り返されました。劉邦の戦略は食料確保優先だったため、人々は付いてきます。さらに彼は、相手の身分や立場に関係なくその意見をよく聞いたために、張良のほかにも韓信、陳平など有能な人物が幕下に加わり、諸勢力に地位を約束して蜂起させるなど器の大きさを見せました。一方、自身が有能な項羽は独裁的で他人の言葉を聞かなかったために、いつしか情勢は逆転。垓下の戦いで項羽は滅びました。
劉邦は、皇帝となり、秦王朝の郡県制に倣って郡国制(※)を敷き、旧諸王国の復活は認めず、統一国家を樹立しました。以後、中断を挟んで400年も続く大王朝となります。長い中国の歴史でも、全くの庶民から皇帝になったのは彼一人。それも「漢」が漢民族の祖とされる所以でしょう。

※郡国制は、中央集権的な「郡県制」と、劉氏や功臣の諸王・諸侯の領地である「国」を合わせて各地に置いた制度です。

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