1877年
西南戦争

近代日本で最後の大規模な反乱が西南戦争。
西郷隆盛を中心に、旧薩摩藩士が蜂起し、肥後の熊本藩や人吉藩、日向の延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩、豊後の中津藩などからも多くの士族が参加しました。薩摩藩とは関係のよくなかった飫肥藩などからも参加しているのは、士族の立場を擁護する西郷隆盛の魅力だったということでしょう。
征韓論で表舞台から降りた西郷は、ともに下野して帰国した桐野利秋らを刺激しないようにするためか、大隅半島など各地を転々としながら狩猟に明け暮れていました。
一方、県下の士族は西郷や大久保利通も出資して設立された私学校で学びますが、政府に残った大警視川路利良が視察のために帰郷させた中原尚雄ら警察官24名を、西郷を殺害しに来たと反発。さらに政府が鹿児島にあった陸軍省砲兵属廠から武器弾薬を持ちだしたことを受けて、私学校徒は弾薬庫を襲ってこれを奪います。西郷はこれを聞いて「しもた!」とつぶやいたとか。
西郷は西南戦争を起こすつもりはなかったのかもしれません。政策で対立したとはいえ、もともと盟友だった大久保に政治を任せて、その状況を見守るつもりだったとも考えられます。しかし自分に従ってきた者たちを無視も出来なかったでしょう。
以後、西郷は作戦にはほとんど口出しせず、西郷軍は熊本城に固執してこれを落とせないまま、南下してきた政府軍に熊本北部で敗北。政府軍は鹿児島や八代日奈久にも上陸し、西郷軍は人吉、都城、宮崎、延岡と転戦。ついに延岡の可愛岳で西郷は初めて積極的に動き、軍を解散しました。ここで死ぬつもりだったのか。しかし西郷と側近らは今の宮崎県境に沿うように山間部を走破し、鹿児島に入り、政府軍の隙を突いて城山を占拠、ここで最後を迎えました。
その後も、鹿児島を始め、各地では政府に不満を持つ旧士族らの間で、西郷人気は高まり、政府要人にも西郷に恩を受けたものが多いため、今でも英雄として扱われています。一方で、この戦争で直接戦火を受けた熊本や、西郷軍が強制的に使用した不換の軍票(軍事紙幣)「西郷札」で甚大な経済被害を受けた宮崎では、批判的な見方をする人もいます。

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