266年
魏の滅亡・晋の建国(泰始2年1月17日)
「三国志」時代の三国の一つ、魏の晋王司馬炎が、賈充・裴秀・王沈・羊祜・荀勗・石苞・陳騫らと計り、第5代元帝曹奐から禅譲を受け、晋を建国、魏が滅亡します。禅譲とは言っても、もちろん実質は簒奪です。曹奐は、字は景明。曹操の孫で燕王曹宇の末子になります。4代皇帝曹髦が最高権力者司馬昭の排除を企てて殺害されるという大事件の後、司馬昭によって擁立された皇帝で、禅譲はもう既定路線でした。
司馬昭は兄の司馬師の子を正統として後継にしようとしますが、反対に遭い実子の司馬炎を後継に定めました。司馬昭の時代に魏は鄧艾と鍾会を指揮官として蜀に侵攻し、これを滅ぼします。しかし司馬昭は帝位に就くことはなく死去し、司馬炎が後を継いでいました。
元帝曹奐が司馬炎に禅譲した時、わずか20歳。彼は都を離れ河北に移ると、陳留王として保護されて以後を暮らしました。漢を滅ぼした魏、魏を滅ぼした晋は、それぞれ最後の皇帝を保護しています。そうすることで、国を譲り受けたという大義名分を示したわけです(漢の高祖劉邦も秦の3世子嬰を助命してますが、子嬰は項羽に殺害されています)。
晋の初代皇帝司馬炎は、当初は名君でした。民のための政治を推し進め、残る呉を滅ぼして天下統一に進みました。有能な臣下がその事業を支えました。しかし280年(咸寧6年)3月、呉が滅亡すると、司馬炎は天下の政治に興味を失ったのか、女色に耽るようになり、中原に入り込んでいた異民族対策もおろそかにします。
さらに後を継いだ2代皇帝司馬衷が暗愚で、皇太后楊氏一族と皇后賈氏一族の権力闘争に発展。これに巻き込まれた、司馬炎が帝室の藩屏として各地に置いた司馬一族の王らが争い(八王の乱)、また放置されていた匈奴ら異民族が介入したため、晋帝国はあっけなく崩壊しました。
曹奐はこの八王の乱の時に没し、その子孫は引き続き、東晋、宋でも陳留王の地位を受け継ぎました。
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