司馬懿(179年~251年)
中国魏王朝の有力政治家・軍司令官であり、西晋王朝の始祖となった人物。字は仲達といい、司馬仲達と呼ばれることも多い。諸葛孔明と戦った人物として有名。
司馬懿の出自である司馬家は、楚漢戦争時代の項羽政権で殷王となった司馬卬の子孫に当たる。河内郡温県の有力者の家柄で、代々中央政権に人材を輩出してきた。
司馬懿の父親は司馬防と言い、洛陽県令・京兆尹(※1)の職にまで登った。非常に厳格で8人の息子に厳しく接する一方、董卓政権が起こると、長男の司馬朗に命じて、子どもたちを故郷に返して守った。若き日の曹操を抜擢して洛陽北部尉(※2)に推挙したとも言われ、曹操とは晩年まで交流があった。
その司馬防の息子8人はいずれも優秀で、字(呼び名)に達の字が入っていたことから「司馬八達」と呼ばれた(※3)。中でも次男の司馬懿は特に優秀で評判が良かった(※4)。
曹操は知人の司馬防の長男司馬朗と次男司馬懿に関心を持ち、抜擢しようとしたが、司馬懿は病気を装って断った。しかし曹操は諦めず、丞相となった際に文学掾に任じ、無理矢理にも仕えさせようとしたので、司馬懿は出仕を決めた。その後は様々な献策で評価されるようになったという。特に漢中を攻略した曹操に「この勢いでもって蜀を制圧しましょう」と進言し、曹操から「いま隴を得てさらに蜀を望むか、わたしはそのようなことはしない」と退けられた話は有名(※5)。
曹操は司馬懿の才能を評価する一方で、「人に仕えるような男ではない」と警戒したと言うが、司馬懿は野心をあらわにするような態度は取らなかった。この頃のエピソードに、司馬懿の首が真後ろまで回ることを聞いた曹操が、こっそり背後から忍び寄って、いきなり声をかけ、驚いた司馬懿がその姿勢のまま顔だけ真後ろを向いた、というのがある。ここから「狼顧の相」と呼ばれた(※6)。
曹操は司馬懿を太子中庶子に任じて曹丕の側近に当て、曹丕は司馬懿を重用し、陳羣、呉質・朱鑠とともに「四友」と呼ばれた。この頃、尊敬していた兄司馬朗と、父親の司馬防を相次いで失い、司馬懿が司馬一族を率いていくことになる。

曹丕が皇帝となって魏王朝を起こすと、順調に出世するようになった。
曹丕の死後、曹叡の重臣となって引き続き仕えた。呉の侵攻を迎撃し、蜀の諸葛亮と組んだ孟達を迅速に討ち滅ぼし、対蜀司令官の曹真が死ぬと、後を継いで対蜀司令官となる。短期決戦を狙う諸葛亮の攻勢に対し、司馬懿の戦略は持久戦。前線での戦闘では諸葛亮に敗れるも、前線を維持することに意を注ぎ、諸葛亮は攻略できずに、234年、前線の五丈原で病死した。蜀軍の退却時に反撃されたことから「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と呼ばれたが(※7)、司馬懿は「私は生きている人間のことはわかるが、死んだ人間のことはわからない(吾れ能く生を料れども、死を料ること能わず)」と答えたともいう。諸葛亮を天下の奇才と評した。
その後、蜀の西北に勢力を持っていた氐族を抑える。238年、魏に属していた遼東の公孫淵が自立すると、司馬懿は曹叡から討伐を命じられ、1年での攻略を約束して4万の兵で出征する。長雨をうけ、宮中で遠征に消極的な意見が出る中、司馬懿は公孫淵を撃破、襄平に籠城した公孫淵は降伏を申し出たが、司馬懿はこれを許さず、公孫淵を滅ぼした(※8)。戦後処理で15歳以上の男子7000人をすべて殺害するなど過酷な処置を施したという。
これにより魏にとって外敵の危機は大幅に減った。公孫淵を討伐直後、曹叡は崩御。曹芳が皇帝となるが、宮中は曹真の息子の曹爽と、司馬懿の二頭体制になる。曹爽は当初、司馬懿を敬していたが、呉の侵攻を撃退した司馬懿に対し、曹爽が蜀の侵攻に対して撃退に失敗したことから、特に曹爽側からの権力対立が強まる。曹爽は司馬懿を名誉職の太傅に祭り上げ、政治の実権を握るが、軍権は司馬懿・司馬師・司馬昭の親子が維持していた。
対立が強まると、司馬懿は病気を装って引きこもるようになる。曹爽らは李勝を見舞いに送って司馬懿の様子を探らせた。司馬懿の末期的な病身の演技に騙された李勝の報告で曹爽らは安堵し、241年、曹叡の高平陵を詣でるために帝都を離れる。この隙に司馬懿は郭太后の令でもってクーデターを実施。曹爽一派は滅ぼされた。
絶大な権力を握った司馬懿だが、丞相の地位にはつかず、あくまで慎重に徹した。251年には司馬氏の権力に対して起きた王凌の乱を鎮圧したが、権力はほぼ盤石で、彼はまもなく病で亡くなった。

権力は長男の司馬師が受け継ぎ、支持率も高かったが、毌丘倹の反乱鎮圧直後に病死したため、弟の司馬昭が跡を付いだ。司馬昭は晋公、ついで晋王となり、禅譲の道が確定したが、病に倒れたため、兄の猶子司馬攸を後継にしようとした。しかし司馬攸はもともと自分の三男であり、権力体制も整っていたことから、結局長男の司馬炎に継がせた。司馬炎は魏から禅譲を受ける形で即位し、晋王朝が成立した(後に滅びて司馬王朝は江南に移ったため「西晋」と呼ばれる)。司馬炎は、事実上の始祖である司馬懿の廟号を高祖、諡号を宣帝とした。そのため司馬炎時代にまとめられた「正史三国志」では、司馬懿ではなく司馬宣王と書かれている。
後世、劉備・諸葛亮が善玉として評価されるようになると、曹操と司馬懿は権力を奪った悪辣な人間として評判を落とした。正史「晋書」でも司馬懿のことはあまり良く書かれていない(※9)。歴代の史家たちからは酷評され、それは日本にも伝わり、江戸時代、司馬懿は悪人の一人であった。直接的には漢から地位を奪ったのは曹丕だが、曹丕より曹操のほうが悪く言われ、その魏を滅ぼしたのは司馬炎だが、祖父の司馬懿のほうが(司馬炎や曹操以上に)悪く言われている。
中国では毛沢東時代に曹操の再評価がされたが、司馬懿が評価されるようになったのは、ごく近年になってから。
最近は、小説や漫画、ドラマなどでも司馬懿は良いイメージで描かれることが多くなった。ゲームでも司馬懿の能力は高く、様々なメディアで諸葛孔明の偉大なライバルとして登場する。
司馬懿は終生、慎重に行動し、露骨な権力欲を示したこともなく、正式に宰相の地位に就いたこともなければ、軍師の立場に立ったこともない。その生涯の多くは軍の司令官だった。子どもたちにも、慎重に行動するよう言葉を遺している。
しかし、司馬師・司馬昭以外の子どもたちは、権力闘争を引き起こして八王の乱の要因となり、西晋王朝は短期間で滅亡に追い込まれた。
妻の張春華も頭がよく気の強いことで知られ、女性の個人名がほとんど記録されることのない中国では、珍しく字も諱も伝わっている。

※1:洛陽県令は後漢王朝時代の首都の行政長官。京兆尹は前漢時代の首都だった長安一帯の長官である。
※2:洛陽北部尉は洛陽の北門を警備する警察長官。曹操が最初に付いた官職。
※3:字の「達」と、優秀を意味する「達」をかけている。
※4:曹操に仕えた儒者の崔琰が司馬朗に「君は優秀だが、君の弟の仲達には及ばないな」と言うと、司馬朗は笑ってうなずいたという。この話がどこまで本当かわからないが、司馬懿の優秀さだけでなく司馬朗の徳の高さを評価する話として知られる。司馬朗はのちに疫病が流行った際、人々に自分の薬を分け与えたため自身は病死したという。
※5:「隴を得て蜀を望む」は、後漢王朝初代皇帝の光武帝が、隴の隗囂と、蜀の公孫述を攻めた際に、部下の岑彭に命じて、「敵対する隴の2つの城市を攻め落とせたら、そのまま蜀に入りこれを平定せよ。それにしても人の欲望はきりがない。私は隴を得てさらに蜀を望まんとするのだからな」と自嘲しつつ言ったとされる言葉。曹操と司馬懿の会話もかなり有名。隴とは漢中とその周辺の一帯、蜀に隣接する地域を指す。
※6:狼顧の相とは、本来、用心深い狼が後ろを振り返る様子を指し、警戒心の強さを指す。司馬懿の生涯は慎重で老獪だったことから、この話があとから付けられた可能性もある。実際に首が真後ろに回ったかどうかは怪しい。
※7:現在は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と呼ばれ「有力者が死後も影響を及ぼす」意味で故事成語となっている。原文では孔明を「諸葛」と姓で呼び、司馬懿を字で呼び捨てることで差をつけたものと思われる。なお司馬懿の返答は、『論語』の孔子の言葉「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん(未だ生のことだってよく知らないのに、死のことなどわかるわけがない)」をもじったものか。
※8:司馬懿は「戦えるなら戦い、戦えなければ守り、守れないなら逃げ、逃げられないなら降伏し、降伏も出来ないなら死ぬだけだ」と言い、「降伏できるときにしなかったのだから死ぬだけである」と相手にしなかったという。
※9:ただし「晋書」はかなり後世の唐の時代に書かれたものの上に、ゴシップ記事的なネタを集めたもので、制度についての間違いなども多いことから、正史「二十四史」の中でも、極めて評価が低く、もっとも信憑性がない史書とされる。
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