司馬遷
(紀元前145年頃~紀元前87年頃)

司馬遷は前漢(西漢)武帝の時代の歴史家。「史記」の編著者。父親は太史令だった司馬談。太史令は天文や暦、文書管理、歴史などを扱う役職「太史寮」の官名で六百石という比較的高い地位であった。司馬遷は20歳の頃、中国の主要な地域を旅して回った。なぜ旅行したのかはよくわかっていないが、各地で古老の話を聞くなどしたことが後に「史記」編纂に大きな影響をもたらした。その後も武帝のお供で各地を旅している。父の死後、3年の喪が開けると太史令を継いだ。役職の仕事として壺遂と一緒に太初暦の制定を定め、その後、父の意志を受け継いで歴史の記録を進めることになる。
ところが、武帝の始めた異民族征討事業のさなか、将軍李陵が匈奴に敗れ投降する事件が起こる。武帝はこの件を臣下に諮るが、ひとり司馬遷は李陵を弁護した。これが武帝の怒りを買ってしまい、投獄されてしまう。
その後、武帝の怒りは収まり、李陵を連れ戻す策を検討するが、ここで匈奴から、李陵が匈奴に訓練をしているという話がもたらされ(実際には李緒が行っていたのだが)、武帝は再度激怒。李陵の一族は族誅となり、司馬遷にも類が及んだ。当時の刑罰では、罪を金銭(賄賂)で贖うことが可能であったが、司馬遷にはその金がなく、死一等を減じるためには、宮刑しかなかった。宮刑とは男性器を去勢する肉刑のひとつで、男性として最も屈辱的なだけでなく、去勢後は宦官となり人間とみなされないほどの重罰だった。また父母より貰った肉体を欠損する上に、子孫を残せなくなるのは、先祖祭祀ができなくなることを指し、父母先祖を敬う儒教思想では最も残酷な処置であった。
司馬遷はそれでも屈辱を受け入れて自殺はしなかった。父より継いだ歴史を記録する事業を進めるためだったとされる。
太史元年、司馬遷は許されて出獄すると、武帝から中書令につくよう沙汰が下る。中書令は皇帝の詔書など重要な文書を扱う権力中枢のポストであり、太史令よりもずっと権力に近い立場であったが、同時に宦官がなるポストでもあり、恥辱と皮肉の混ざった人事だったと言える。それでも司馬遷は武帝の側に従い、各地の巡行にも同行している。
征和3年(前90年)前後に、司馬遷は「史記」をほぼまとめたと考えられるが、それを原本と写本に分けて保管したものの、公開することはなかった。公開しなかったのは、武帝に関する記述が際どく、怒りを買って家族らに類が及ぶのを避けたためとも考えられる。なお、この時は「太史公書」としており、「史記」と呼ばれるようになったのは、三国時代頃とみられる。
史記の完成から間もなく、武帝が崩御。司馬遷はその少しあとになくなったものとみられる。史記はその後、徐々に人の間に知れ渡り、司馬遷の娘の子である楊惲が公に広めた。
司馬遷は、史記をそれまでの代表的歴史書である「春秋」のように時代順に記す「編年体」では書かず、人物をカテゴリ別にして、人物ごとに歴史的事象を記す「紀伝体」という手法を使った。以降の多くの歴史書は「紀伝体」を用いた。
一方で、後年の歴史書がおおむね儒教の規範に基づいて書かれ、記述対象の王朝を絶対としたのに対し、司馬遷はあくまで人物の生き様を主体として記したため、皇帝の章である「本紀」に皇帝ではない項羽や呂后を入れたり、商人の貨殖列伝や、法に厳格だった人々の酷吏列伝など儒教的にはあまり評価されない人々の列伝も掲載した。漢王朝に対しても客観的な視点で記してある。その為、後世の史家から批判も受けている。
ウインドウを閉じます

総合年表

総合年表ブログ