901年
昌泰の変で菅原道真が大宰府へ左遷される(延喜元年1月25日)

菅原道真は、宇多天皇の信任を受けて、寛平の治を進めた人物。この背景は、人臣最初の関白となった藤原基経に煮え湯を飲まされた経験がある天皇が、基経の死後、摂政・関白を任命せず、清和天皇、陽成天皇のもとで政治を行った源能有(臣籍降下した皇族)を引き続き採用し、彼と親しい菅原道真を登用しました。一方、基経の子である藤原時平も登用し、平季長らも含めて、政治を行わせました。道真は、藤原氏に対抗する存在として天皇から重用され、相応に出世していきます。自分の娘衍子を宇多天皇の女御に入れ、娘寧子を宇多天皇の子・斉世親王の妻としました。自らが大使に任命された遣唐使の停止を建議し、遣唐使は中止となります(唐の滅亡で廃止)。
宇多天皇が醍醐天皇に譲位した際も、道真を重用するよう強く勧め、醍醐天皇は、菅原道真と藤原時平のふたりだけに官奏執奏の特権を認めました。
道真は有力貴族や寺社の勢力をそぎ、王朝に権力を戻そうと改革を進めます。しかしそれは、藤原氏を中心とする貴族層の反発を買います。これをみて三善清行は道真に引退することを勧めますが、道真は受け入れませんでした(三善は官僚登用試験で試験官の道真に落とされた過去があり、両者の間は微妙なものだった)。
延喜元年(901年)、道真は娘を嫁がせた斉世親王を皇太弟に立て醍醐天皇から皇位を継がせようとしていると誣告され、罪を得て大宰権帥に左遷されました。その時詠んだのが、「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の名句。
道真の子4人も流刑に処され、源善、源希、藤原忠平らも追放され、斉世親王は仁和寺に入って真寂と名乗りました。これを昌泰の変といいます。
権力を王家に集中させたい宇多上皇と、藤原氏のもとで安定した地位を得たい醍醐天皇の対立に道真がスケープゴートになったとも考えられます。道真はまもなく大宰府で亡くなりました。
実権を握った藤原時平は、改革を進めますが、39歳で急死。道真の祟りだと言われます。
その後、左遷されていた藤原忠平(時平の弟)が復活。道真の進めた改革は形を変えつつ続行され、延喜・天暦の治となりました。
のち、清涼殿に落雷があり、道真の監視をしたことがある藤原清貫らが死亡。道真の怨霊だとされ、焼死した貴族らの無残な光景を見た醍醐天皇は大きな衝撃を受けてまもなく崩御しました(※)。

※危ない目に遭ったときなどに「くわばらくわばら」と言うのは、菅原道真の領地が桑原だったことから、唱えることで落雷を避けようとしたことから来ている、という説もあります。

ウインドウを閉じます

総合年表

総合年表ブログ