907年
朱全忠が梁を建国。開平元年4月18日。

朱全忠は大中6年(852年)に宋州で生まれます。元の名を朱温。黄巣が起こした反乱に参加し、頭角を表します。黄巣軍は洛陽・長安を落とし、皇帝は蜀へ逃亡。黄巣は国を興し「斉」と号しました。しかしまともな政権ではなく、略奪や知識層の殺害を繰り返したため、民衆は離反していきます。
その頃、唐の王重栄と対峙していた朱全忠は、黄巣に救援を求めますが届かず、黄巣が民衆の支持を失ったことを知り、唐王朝側に寝返りました。彼は黄巣軍を撃破して長安を取り戻すと、皇帝らを迎えます。
皇帝は彼に全忠の名を与え、朱全忠と名乗りました。兵の指揮権を持つ節度使となった朱全忠は、黄巣を滅ぼした李克用らを宮中から追い出し、実権を掌握していきます。しかし、この時、唐王朝が支配する地域は華中一帯のみで、地方は各節度使や李克用のような軍閥が支配する割拠時代になっていました。
皇帝僖宗が亡くなり、弟の昭宗が即位すると、反乱、宦官のクーデターなどが相次ぎ、いよいよ王朝の支配は終焉に向かいます。こんな中、朱全忠は洛陽への遷都を強行。宦官や主要貴族らをことごとく殺害。ついには昭宗も殺害し、その子の哀帝を即位させた上で禅譲させ、自ら帝位に就きました。国号を「梁」(後梁)としました。名も朱晃と改めます。
しかし李克用ら各地の軍閥は当然これには従わず、次々と国を興します。これが「五代十国」のはじまりでした。
ちなみに唐の哀帝とその兄弟10人はみな朱全忠に殺害されました。そして朱全忠自身も後継者問題から自分の息子に殺害されるのです。血で血を洗うような時代の見本といえる人生でした。

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