1193年
曾我兄弟の仇討ち(建久4年 5月28日)
日本三大敵討ちの一つにも挙げられる、著名な敵討ち事件。
事件は、源頼朝が主催した「富士の巻狩り」で起きました。巻狩りとは、集団で動物の狩りを行う形式の、一種の軍事演習。富士の巻狩りは、富士山の麓の富士野で、数万から十数万人が参加したとも言われ、約3週間行う大規模なものだったと言われます。
このさなかに事件が起きます。曾我十郎祐成と五郎時致(ときむね)の兄弟は富士野の神野にある頼朝の御旅館にいた父親の仇、工藤祐経に襲いかかり、これを殺害。そばにいた大森隆盛(王藤内)も殺害します。現場は大混乱となり、居合わせた武将らも襲われて負傷。
兄の十郎祐成は、巻狩りの運用を担当した北条時政の側近、仁田忠常に討ち取られます。弟の五郎時致は、源頼朝に立ち向かいますが、御所五郎丸の手で捕らえられます。頼朝は五郎時致を許すことも考えますが、殺された工藤祐経の幼子犬房丸の訴えを入れ、五郎時致は処刑されました。彼らの兄弟らも自害に追い込まれました。また頼朝の弟の範頼は、事件の一報を聞いた北条政子が頼朝の消息を案じた際に「後には自分がおりますので」となだめたことが、謀反の疑惑を招いて、失脚の遠因となったとも言われています。
この事件は、伊豆国伊東の領主工藤家の相続争いが原因。
平安時代後期の伊東の領主であった工藤祐隆は、嫡男祐家が若くして病死した後に、後妻の連れ子が生んだ祐継に、自分の領地伊東荘を与えることにし、死んだ嫡男祐家の子の祐親には別に河津荘を与えました。しかし本来嫡流の河津祐親はこれを不満に思うようになります。彼は平家より源頼朝の監視役を任されますが、祐親の娘は頼朝と恋仲になり、頼朝の子を生んだため、祐親は激怒してその子を殺し、頼朝の命を狙うようになります。一方、伊東荘を相続していた伊東祐継は病気で死ぬ際、家督を子の祐経に譲り、河津祐親に後見を頼んでました。祐親は、祐経にも自分の娘を嫁がせていましたが、祐経が京に行っている間にその伊東の所領を奪い、さらに娘も離縁させて別の人物に嫁がせてしまいます(河津祐親は伊東祐親となり、伊東祐経は工藤祐経と呼ばれる)。
工藤祐経は所領と妻を奪われたことを恨んで、伊東祐親と敵対していた源頼朝に接近。また頼朝も、自分の子を殺した祐親を恨んでいたため、工藤祐経に祐親の命を狙わせます。そして工藤祐経が伊東祐親を襲撃した際、矢の狙いが外れて、祐親のそばにいた嫡男の河津祐泰に当たり、祐泰が死亡してしまう。この河津祐泰の子供が曾我兄弟だったわけです。兄弟が曾我を名乗っているのは、祐泰の死後、母親が曾我祐信に再嫁し、兄弟は祐信に育てられたため。
なお、当時21歳の曾我祐成には、遊女の虎という妾がいた(17歳位と言われる)。虎も取り調べを受けたが無罪放免となり、出家して兄弟の菩提を弔ったという。祐成と虎との間には、河津三郎信之と言う子がいたという説もあります。
一方、討たれた方の工藤祐経の子の犬房丸は、のちに伊東祐時を名乗って幕府御家人となります。その子孫の主流は日向に下向して戦国時代に勢力を広げました。ヨーロッパに行った伊東マンショや、分家の薩摩伊東氏からは明治時代の海軍司令官伊東祐亨なども出ています。
また、工藤祐経と争った伊東祐親の子孫は、尾張に移住し、のちに織田信長に仕えます。ちょうどその頃に島津氏の攻勢で一時領地を失った日向伊東氏の伊東祐兵を羽柴秀吉に紹介したのは、尾張伊東氏の伊東長実とみられます。伊東長実は備中岡田藩初代藩主となり、伊東祐兵は秀吉に仕えた後、日向飫肥藩初代藩主となりました。岡田藩も飫肥藩も明治維新まで続いています。
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