1944年
ゾルゲ事件

この事件は、太平洋戦争中に起こったスパイ摘発事件。警視庁特高部特高第1課と同外事課によって、1941年9月から摘発が始まり、中心人物だったリヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実らは1944年11月7日に巣鴨拘置所で処刑されました。
もともとは、アメリカ共産党員で帰国した画家の宮城与徳と北林トモが調査対象となったことにあります。彼らの持っていた品から、諜報組織の全容が明らかになって行きました。
捜査対象として、ドイツの新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」記者リヒャルト・ゾルゲ、内閣顧問の尾崎秀実、女性社会主義活動家の九津見房子、朝日新聞東京本社政治経済部長田中慎次郎、南京国民政府顧問の犬養健、近衛文麿内閣嘱託の西園寺公一、ゾルゲの部下のマックス・クラウゼン、アヴァス通信社のフランス人特派員のロベール・ギランと記者のブランコ・ド・ヴーケリッチなど政官界の大物を含む数百人にのぼり、政府に大きな衝撃を与えます。そのうちゾルゲや尾崎ら多数が検挙されました。
ゾルゲがドイツ駐日大使オットの側近だったことから、オットは抗議しますが、ゾルゲ自身からソ連のスパイと聞かされます。彼は辞職を願いますが、すぐには受理されませんでした。
ゾルゲらは日本やドイツの動きをソ連に流しており、スパイ活動は事実でした。ゾルゲは死刑に処せられた後、同棲していた愛人の石井花子の手で多磨霊園に葬られます。戦後、ソ連や東欧諸国ではゾルゲは英雄となり、切手が発行され、軍部隊の名にもなりました。ソ連(現在のロシアも)駐日大使は多磨霊園のゾルゲの墓を詣でるのが慣例となっています。

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