1991年
ソ連政変、そして崩壊

1985年にソビエト共産党書記長となり最高権力者の地位についたミハイル・ゴルバチョフは、比較的若い政治家で、期待を受けて体制を立て直すため、ペレストロイカ(改革)を実施します。硬直していた人事を刷新し、商業の規制緩和、アフガニスタンからの撤退、核軍縮、米ソ、中ソの関係改善、粛清された人々の名誉回復、そして所属する各共和国との新たな連邦体制への移行を図りました。チェルノブイリ事故を受けて情報公開(グラスノスチ)も行います。
しかし、皮肉にもこの政策は、ソ連に組み込まれていた各共和国の民族主義を呼び覚まし、独立の動きが活発になります。それはソ連保守派の反発を買いました。
さらに東欧革命が始まると、ワルシャワ条約機構は有名無実化。バルト三国の独立への動き、東西ドイツの統合とNATO化、コメコンの解散で、ついに1991年8月19日、保守派がクーデターを決行。ゴルバチョフは避暑地のクリミアで軟禁されます。
しかし、市民と軍がこれに反発。ソ連邦内ロシア共和国のトップだったエリツィンの元、軍も味方して、22日、クーデター勢力は逮捕され、ゴルバチョフは解放されました。
しかしこれによりゴルバチョフの権威も失墜。8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任、ソ連共産党中央委員会の自主解散を要求し、エストニアとラトビアの独立も承認しました。
8月27日、モルドバが独立を宣言。29日には議会が共産党の活動停止を決め、東欧ユーゴでは内戦が激化。これを抑える能力も失い、12月8日、ロシア・ベラルーシ・ウクライナはソ連からの離脱を決定。12月21日には12カ国が独立国家共同体の結成を決め、12月25日、ゴルバチョフは大統領も辞任。
かつて冷戦の一方を担い、共産主義の総本山でもあったソビエト連邦は、所属国家を失い、有名無実と化して、1年前には誰も予想しなかった崩壊という、あっけない結末を迎えました。
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