1976年
ソウェト蜂起

南アフリカ共和国ヨハネスブルグ南東部のソウェト地区で発生したアフリカ系住民によるデモに警察が発砲し、多数の死傷者を出したことがきっかけで起きた暴動事件。
南アフリカでは、建国以前、黒人の部族が暮らしていたが、そこへオランダ系の移民が入植した。彼らはアフリカーナー(ボーア人)と呼ばれていたが、あとから勢力を伸ばしてきたイギリスとの間で2度戦争となった(ボーア戦争)。
ボーア戦争でアフリカーナーは敗れて没落し、イギリスのケープ植民地は拡大する。イギリスは貧困化したアフリカーナーを保護するため、人種を区別して権利を定める各種法律を施行し、教育や労働、婚姻で黒人を差別した。第二次大戦後、政権をになった国民党は、政策をエスカレートして、白人、アジア人、カラード(混血)、黒人という風に格差をつけた。居住区も分けるバントゥー自治促進法によって、黒人をバントゥースタンと呼ばれる不毛な地域に強制移住させて封じ込めた。ソウェトはヨハネスブルグ近郊にある黒人居住区の一つとして成立する。
予算の90%が白人地区へ投入され、黒人は教育もまともに受けられなくなる。
さらに黒人に対し、アフリカーンス語が強制されることになる。
アフリカーンス語はアフリカーナーの使っていたオランダ語に、英語や地元の言葉などが混ざってできた言語で、現在でも南アフリカや周辺諸国で広く使われているが、黒人にはこれが植民地政策の象徴とみなされ、猛反発を買う。
6月16日、黒人の学生・生徒が抗議のデモを計画、実行に移す。このデモは、穏健的に行われたが、そのさなかに白人警官が発砲、それがきっかけでパニックとなった学生らに次々と発砲が行われた。その結果、抗議運動は暴動に発展。翌日にかけて多数の犠牲者を出す結果となった。
射殺された少年ヘクター・ピーターソンの遺体の写真は世界中に配信され、南アフリカ政府に対する抗議が各国で起きる。経済制裁が強化され、南アフリカ国内でも黒人の反発はさらに増加。白人層の間でも政府の強権的政策に反発する動きが強まった。
この結果、国民党は苦境に立たされ、徐々に差別政策の緩和を進めたが、黒人層の反発は収まらず、1991年、デクラーク政権によってアパルトヘイト政策の各基幹法が廃止されるに至った。

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