1940年
命のビザの発給
外務省在リトアニア日本領事代理となった杉原千畝は、カウナスの小さな領事館の前に、ユダヤ人がビザ発給のために集まってくるのに気づきます。
ナチスドイツの迫害を受けていた難民らは、彼らに同情的だったカウナスのオランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクの勧めと支援もあり、ヨーロッパもトルコも脱出ルートが塞がれ、極東経由しか無くなったことから、日本通過のビザを求めたためでした。
杉原は本省に問い合せますが、本省の返事は旅費・滞在費のないものは認めないというものでした(※1)。彼は悩んだ末、人道的観点から、独自にビザを発給。本省からは杉原に中止命令と叱責が行われますが、査証無効にならないよう返信を遅らせるなどして、8月29日の領事館閉鎖後も、ホテル、さらにベルリン行きの列車で出発する9月4日までに2千枚以上を発行しました(※2)。もちろん、そのすべてが活かされたわけではありません。多くのユダヤ人は侵攻してきたナチスの特殊部隊によって殺害され、また高価なシベリア鉄道乗車費用がなくてソ連通過ができず、ソ連の抑留施設に放り込まれて消息を絶ちました。
しかし、満洲までたどり着いたユダヤ人は、杉原の知己でもある根井三郎ウラジオストク総領事代理らの協力で日本本土に送られ(※3)、ドイツとの同盟を推進した松岡洋右外相も「日本国内に入ったユダヤ人」については事実上不問にしました。さらに一部は日米開戦直前にアメリカ経由で、キュラソーや、パレスチナへ行き、また多くは上海へ移されました。上海租界は厳しい環境でしたが、終戦まで生き延びました。ここにも多くの日本人の協力がありました。この結果、6000人が救われ、その子孫は25万人以上になります。
戦後、捕虜収容所を経てソ連から帰国した杉原は、外務省を人員整理を理由に退職します。ビザ発給に関する訓令違反が理由と考えられています。その後も外務省は杉原には冷淡で、中傷めいたことも行っていました。杉原は民間企業などを転々として戦後を暮らしました。
イスラエル建国後、このビザで生き延びた人々は杉原の行方を探し続け、ようやく再会にこぎつけることが出来たとき、すでに1968年になっていました(※4)。
1985年イスラエルからの「諸国民の中の正義の人」としてヤド・バシェム賞授与、さらに各国のユダヤ人らの抗議、ドイツやリトアニアでの評価、ドラマ化などで、日本政府がようやくその功績を認め、名誉回復が図られたのは、杉原の死後14年も経った2000年10月10日。しかし日本人の名誉にも関わる問題であるのに、率先すべき外務省は最後まで功績を認めませんでした。
※1:日本政府は五相会議の結論から建前上ユダヤ人を保護するとしたものの、実際にはドイツとの関係も考慮し、ユダヤ人の入国に否定的で、通過するだけでも消極的だった。
※2:発行数の記録を取らなくなったため、番号のある2139枚までしか正確な数字は判っていない。なおビザは1枚でその家族も通用したので、助かった人の数も膨大になる。
※3:根井も外務省本省に逆らってユダヤ難民のために便宜を図り、日本本土への渡航を認めた。
※4:時間がかかったのは、外務省の非協力的な対応と、杉原自身が自分の名前を呼びやすいよう「センポ・スギハラ」とユダヤ人に教えていたため、イスラエルはその名前で探していたため。
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