1911年
大逆事件の判決がくだされる
大逆というのは天皇の暗殺(未遂も含め)であるため、特定の事件を指しませんが、狭義的には1910年の大逆事件を指します。幸徳秋水が中心人物として処刑されたことから、幸徳事件と呼ばれるようになってきています。
事件は、1910年5月25日、宮下太吉ら4名が、明治天皇暗殺を企てたとして逮捕されます(「信州明科爆裂弾事件」)。政府はこれを、当時急拡大していた労働運動、社会主義運動、無政府主義運動を弾圧することに利用し、多くの運動家が逮捕されます。中でも萬朝報、平民新聞の記者として政府批判を繰り返してきた幸徳秋水はターゲットにされました。
実際の暗殺計画がどこまでのものだったか不明ですが、それでも関わったとされるのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5人で、幸徳秋水らは無関係とされています。
そしてこの日、幸徳秋水ら24名に死刑、2名に有期刑の判決が下され、12名が処刑。5名が特赦による死一等減刑で無期刑となり獄死しました。
この事件で思わぬ問題になったのが、裁判中に幸徳秋水が発言した「現在の天子は南朝から三種の神器を奪った北朝ではないか」という天皇家の正当性を疑問視する発言。当時は教科書でも両統併記していましたが、これによって南北朝正閏論(どっちが正統かの論争)が沸き起こり、大日本史の記述より明治天皇が決定して南朝が正統ということになりました。その結果、北朝系の天皇家との矛盾が、様々な事件を引き起こし、1946年の熊沢天皇にまでつながることになります(※)。
※明治天皇は南朝を認めたということで、北朝5代を否定したわけではなく、歴史上も北朝5代の内3代は神器を持っていた可能性が高いため、北朝のほうが形式的にも実質的にも朝廷を形成しているわけですが、戦後も基本的には南朝を代数として数えています。
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