1851年
太平天国の乱勃発

客家の出身でキリスト教徒となった洪秀全は、1844年、拝上帝会を広西省桂平県金田村に創設します。
組織の布教活動で、低所得者層を中心に、信者を増やして行きました。特に洪秀全と共に組織を立ち上げた馮雲山の活動が大きかったと言われます。
洪秀全が広東省に行っている間も、広西省で布教を進め、洪秀全が宗教的に理論をまとめていったのに対し、馮雲山は、より現実的なメリットを示すことで、世情に大きな不満を持つ人々の支持を得ました。1848年には官憲に逮捕されますが、賄賂を払って釈放されています。
拝上帝会には客家出身の楊秀清や、地元チワン族出身の蕭朝貴・韋昌輝、石達開らが加わります。彼らの加盟により、組織の中枢が出来上がります。さらに天変地異が続き、庶民の互助会である天地会が次々と反清の狼煙を上げるようになったため、洪秀全は機は熟したと判断。
1850年7月に幹部を集め、軍事組織を編成。地元の清軍により攻撃を受けるも、これを打ち破り、この年1月11日、洪秀全は「太平天国」建国を宣言。辮髪を切り落とし、軍事挙兵しました。これを金田蜂起といいます。この後、太平天国軍は、中国南部を席巻する大規模な反乱へと発展していきます。

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