1694年
高田馬場の決闘(元禄7年2月11日)

江戸高田馬場で行われた私闘事件。きっかけは、元禄7年2月7日、伊予西条藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が相番していて口論になったこと。他の藩士が仲裁し、一旦は和解しますが、その後ふたたび口論になり、ついに決闘で決着をつけようということになります。場所は高田馬場。菅野は自家の若党と草履取りの2人しか助っ人がいません。しかし村上家は三兄弟と家来ら6~7人になるらしい。菅野は悩んだ挙句、直心影流堀内正春の堀内道場の門弟で義理の叔父・甥の関係を結んでいた剣客中山安兵衛(のちの堀部武庸)に事情を説明し、自分が討たれた後の妻子の身柄引受と敵討ちを頼みます。安兵衛はすでに家族がなく、話を聞いて、敵討ちは受けられないが、今なら助っ人になれると、参加を申し出ます。あるいは菅野もそれを期待していたのかも知れません。
安兵衛を連れて、菅野は4人で高田馬場へ。行ってみると村上一人がいますが、さりげなく弟ら助っ人が木陰などに隠れている事に気づき、挟み撃ちを仕掛けてきた相手に応戦し次々と3人を倒します。菅野も必死に村上と闘い、手傷を追わせた所で、安兵衛が助っ人に入り村上を斬り伏せました。
この決闘事件は江戸市民の大評判となり、安兵衛は18人斬りなどと大げさに盛り上げられる始末。話を聞きつけた赤穂藩士の堀部金丸が、安兵衛に中山姓のままでも良いからと頼み込んで娘婿に迎え(※)、安兵衛はのちに赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件に参加しました。偶然とは言え、江戸庶民の大きな関心を呼んだ2つの事件にそれぞれ関わったわけです。
※堀部金丸の娘ほりが、決闘の際に見学していて、タスキ替わりの「しごき」を渡し、安兵衛が感心したというような話が創られています。

ウインドウを閉じます

総合年表

総合年表ブログ