1653年
幕府が玉川上水建設を許可(承応2年1月13日)

1590年の徳川家康の関東入府後、江戸の町の整理が行われ、それまでの町があった場所に武家地を確保し、神田の山を切り崩して、日比谷入江を埋め立て、町人地を確保します。しかし埋立地では、当然のごとく、井戸を掘っても真水は出て来ません。
当初は、井の頭池(現在の井の頭公園)から水を引きました。これを神田上水といいます(その前に小石川用水があったという説もあります)。善福寺池(現在の善福寺公園)から流れる善福寺川の水もあわせて、堀を使い、木樋と枡を使って武家地から回し、残りを町人地へ流す、本格的な上水道施設でした。が、幕府誕生後、武家の首都として規模が拡大する中、早くも不足が目立つようになります。そこで、町人の建議による水路の着工を許可しました。
この上水は多摩川から取水し、江戸まで運ぶ大規模なもので、老中松平信綱が総奉行、伊奈忠治が水道奉行、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負い、6000両が拠出されました。4月4日に着工。日野から取水し、開削を進めますが、関東ローム層に水が吸い込まれて失敗(「水喰土」みずくらいど、と読む)。担当役人が処刑される事態に。福生に取水口を変えて二度目の開削を行なうも、こちらも失敗し、三度目に羽村から取水してようやく成功しました。
羽村から四谷まで高低差わずか100mを、当時の技術で見事に通水したわけです。これで、江戸の水不足が解消されただけでなく、武蔵野の原野の開墾が進みました。現在も上水は生きており、多くは暗渠化されているものの、公園のようになっている場所もあり、各所で見ることができます。

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