1536年
天文法華の乱(天文5年7月27日)

法華というのは、日蓮系宗派(法華宗)のことです。
戦国時代、法華宗は急速に勢力を拡大しました。京では町衆の多くが法華宗徒となります。一方、もともと京の周辺には比叡山延暦寺と、本願寺一向宗(※)の山科本願寺が大きな勢力を持っていました。いずれも多数の僧兵を抱え、本格的な武力を持っていました。
法華宗徒は、これら宗派と争い、山科本願寺は天文元年8月24日(1532年9月23日)に法華宗徒や細川氏、六角氏らに攻められ、焼き討ちされました。一向宗と法華宗徒だった三好氏の対立も背景にあったようです。一向宗徒は石山本願寺に拠点を移していきます。
一方、比叡山延暦寺も法華宗徒の拡大を懸念、法問答を行って敗れると、幕府に働きかけて法華宗の排除に乗り出しますが、幕府はむしろ法華宗側に付きます。比叡山の武力は、しばしば幕府とも対立した背景があったからでしょう。そこで比叡山は各宗派に協力を求める一方、僧兵を繰り出して、法華宗側に比叡山の末寺になるよう要求。それを法華側が拒否すると、六角氏の兵力を借りて、6万の大軍で京に攻め込みました。そして法華寺院21カ寺を焼き討ちし、京の法華宗は壊滅しました。応仁の乱から復興していた京の市街地はこの紛争によってふたたび灰燼に帰したといいます。
本来、人の救済のために宗教はあるのですが、いずれの勢力も武装化し、人々を苦しめる存在となりました。織田氏や豊臣氏が宗教勢力と戦った際に、残虐なまでの徹底的な弾圧を加えたのも、単なる権力者の傲慢ではなく、それなりの理由・背景があったわけです。

※一向宗には、一向俊聖を祖とする一向宗、一遍房智真を祖とする時宗、親鸞が興した浄土真宗の本願寺派の一向宗があるが、一般には本願寺を指す。元々は踊りながら布教する一向宗と同じ手法の時宗が混同していき、その広まった地域に進出した浄土真宗が彼らを「一向衆」と呼んで吸収していったことが背景にあると言われる。

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