徳川四天王

徳川家康を支えた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の重臣を、仏教の四天王になぞらえて評した言葉。いつ頃から称されるようになったかは定かではない。
4人は徳川家臣団の中で、必ずしも同じ地位、立場にあったわけではない。

酒井忠次は、4人の中だけでなく、家臣団でも最年長で、同じく徳川家の家老格だった石川数正とともに徳川家康が竹千代と呼ばれていた幼少期から支えた譜代の重臣。松平家とは姻戚関係もあり、家康より年上でもあるため、家康や家中に対してご意見番的存在でもあった。榊原康政と井伊直政の対立を仲裁するなどの役割も担っている。しかし家康の嫡男だった信康が、織田信長から疑いを持たれた件で、弁護を担当したがうまく行かず、信康は切腹に追い込まれた。この件が尾を引いて、酒井家は四天王の中で、石高が一番低い扱いを受ける結果となったとされるが、この話は俗説でもある。
酒井忠次は年齢が特に高く、徳川家が豊臣時代の関東転封で大きくなった時点ではすでに引退していた。四天王の他の3人が現役だったことと比べると、世代交代していた分、立場が目立たなくなっていたとも考えられる(酒井を除く3人をして徳川三傑とも言い、こちらの表現のほうが早かったとも言う)。

本多忠勝は、酒井家同様、安祥松平氏時代からの譜代の家の出で、祖父、父、兄がいずれも戦死している武門の一家だった。忠勝も13歳で初陣、14歳で初首を取った。以後、二俣城、三方ヶ原、姉川、長篠、高天神、伊賀越え、小牧・長久手など、数々の激戦で活躍し、秀吉からも日本第一と称賛された。関ヶ原でも活躍している。関東移封後に大多喜藩、関ヶ原後には桑名藩の初代藩主となり、桑名城下を整備したが、幕府ができると文治派が力を持つようになり幕閣の中枢にはいなかった。
謀略を担った本多正信を嫌い、家康に煮え湯を飲ませ続けた娘婿の真田家を守るために尽力し、天下三名槍の「蜻蛉切」を愛用して生涯57度の戦で傷一つ負わず、最晩年小刀で誤って指に小さく怪我したのを見て自分も終わりか、と嘆息したという。あくまで武門の人であった。榊原康政とは幼馴染で生涯親友同士であった。

榊原康政は、分家の陪臣というかなり低い身分の出身で、13歳の時に家康に見出されて小姓となってから出世していくことになった。本多忠勝とはその頃からの親友同士。戦歴も忠勝とよく似ており、ともに競い合ったと見られている。忠勝が武勇の人だったのに対し、康政は指揮官タイプで、また行政官としても有能であり、情報戦に巧みであり、能筆家でもあるなど、文武両道の人物だった。身分が低かったために家付きの家臣が少なく、家康はわざわざ複数の直臣を榊原家の家臣として移している。気難しい性格の井伊直政とは当初仲が悪かったが、のちには最も信頼する間柄になったことや、小牧長久手では情報工作で秀吉を誹謗し怒らせたが、後に秀吉の方から和解を求めていること、関ヶ原で遅参した徳川秀忠を弁護したことでも知られており、人柄を示すエピソードも多い。

井伊直政は、もともと徳川家と敵対していた遠江の国人領主井伊家の出身。井伊家は「おんな城主」で有名な井伊直虎の頃に、武田家、今川家、徳川家に挟まれて翻弄され、没落している。幼少の直政は助命のため出家させられたが、敵だった徳川家に仕えさせるため、徳川家臣の松下家に養子に入っている。その後、家康に見出されて井伊家当主に復帰、家康の小姓となった。しかし直政は年若く、外様だったこともあって、世に知られるようになったのは、四天王の他の3人よりもかなりあと。武田家滅亡後、その遺臣たちを家臣に組み込むことになり(井伊の赤備えは、もともと山県昌景の朱色の軍装を受け継いだもの)、その軍を率いて小牧・長久手の戦いで活躍してから。しかしその後の出世は非常に早い。豊臣政権下では、徳川家臣で最も高い「侍従」を認められ(昇殿が許される身分)、関東転封後の所領も一番大きい12万石となっている。外交能力に長けており、諸大名に対する調略の他、関ヶ原後には、西軍方大名の執り成しにも動いている。東西を結ぶ要衝で石田三成の旧領佐和山を与えられたのも、その能力があったから。直政には他の徳川家臣との仲の悪いエピソードや家臣に出奔された話もある。敵を許す一方で、自分自身や家臣、同僚には厳しかった。外様出身ゆえの辛い経験がそうさせたのだろう。

徳川家康はこの個性的で自己主張の強い4人を始めとする有能な家臣団を率いて天下を手に入れた。それだけの器があったわけだが、家臣団を統率するのには気苦労も多かっただろうと思われる。
ウインドウを閉じます

総合年表

総合年表ブログ