1945年
東京大空襲
東京への空襲は、1942年のドーリットル空襲を除けば、1944年11月ころから本格化し始めます。しかし当初は、軍需工場を目標にしており、武蔵野の中島飛行機の工場などが爆撃されていました。
しかし3月10日の空襲は、下町の一般市民が住む地区を重点的に狙ったものでした。アメリカは国内の砂漠に日本の町並みを再現して、どのような攻撃であれば効果があるかを試し、木造住宅に効果的と判断して、マグネシウムとアルミニウムのエレクトロン合金を使ったテルミット焼夷弾(エレクトロン焼夷弾)や油脂焼夷弾を使用しました。
エレクトロン焼夷弾は発火すると650度以上になり、激しく発光するため、夜間爆撃でも目標を示す照明弾の役割を兼ねて使用できます。残っている映像でも輝きながら落ちていく焼夷弾が記録されています。またこの焼夷弾は酸素がなくても燃えるため、一旦発火すると燃え尽きるまで消すことができません(水中でも激しく燃えるほど)。これらの焼夷弾を集束した集束焼夷弾E46を、最大限積めるよう、B-29各機は爆弾や機銃まで取り外していました。
午前0時過ぎ、米軍は爆撃機279機と先導するパスファインダー機などを含む計325機で帝都上空に襲来。当時の深川区(現江東区)、城東区(現江東区)、浅草区(現台東区)、芝区(現港区)を次々と爆撃。当初目標ではなかった東部の荒川区、葛飾区、江戸川区も爆撃。下町一帯は大規模な火災になります。人々は隅田川、荒川などへ逃げ、橋に殺到し、その周辺で大勢亡くなりました。小学校などコンクリート製の大型建造物に逃げ込んだ人もいましたが、火災旋風が起こり、窓を突き抜けて内部を通りぬけ、多くが焼死しました。
当時の東京35区のうち東側約41平方kmが焼失しました。公式発表では死者8万3793人(実際は10万人以上と言われる)、負傷者4万918人、被災者100万8005人、被災家屋26万8358戸。
米軍側は12機が撃墜されるなどして喪失しています。
警視庁のカメラマンだった石川光陽は命令を受け、火災の中を33枚撮影し生き延びました。のち彼はGHQから写真の引渡しを命じられますが、これを拒絶し、写真は現在まで残されました。彼は他の空襲も記録しています。
戦略爆撃を指導したカーチス・ルメイは、戦後、航空自衛隊の育成に貢献したとして勲一等旭日章を授与され大問題となりました(真珠湾攻撃を指揮した源田実もアメリカから勲功章を受けている)。昭和天皇は通常勲一等に対して行なう彼への親授を行いませんでした。
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