1620年
ウィリアム・アダムス(三浦按針)死去

元和6年4月24日。
アダムスはイングランド生まれの船乗りで、造船技師でもありました。海軍に入り、アルマダの海戦(1588年7月31日~8月8日)にも参加しています。その後、各地の航海に参加しましたが、1598年6月24日、オランダの極東船団に加わり出発します。5隻の船のうち、日本までたどり着いたのはリーフデ号1隻。病気や、原住民の襲撃、沈没などで110人の船員は24人になっていました。
1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着。通報を受けて、生存者と会見に臨んだ徳川家康は、彼らを厚遇することにしました。実はカトリックであるイエズス会の宣教師らは、敵対関係にあるプロテスタント系の船員を海賊だから殺すよう進言していたのです。
江戸に来たアダムスらは帰国を望むも、それは叶いませんでした。領地と屋敷を与えられ、旗本となり、外交顧問、造船顧問となります。しかし保護していた家康が亡くなると、立場は厳しいものになったといいます。
そして帰国もかなわぬまま、当時貿易港だった平戸で亡くなりました。海の向こうにある故郷を思って眺めたことでしょう。日本で生まれた息子ジョセフがあとを継いで旗本となり朱印船貿易を担いました。
なお、同じ船に乗っており、家康に仕えたオランダ人ヤン・ヨーステンの屋敷のあった場所が、彼の名前に由来する「八重洲」。現在は東京駅のある辺りです。

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