1970年
よど号ハイジャック事件

左翼テログループの赤軍派は、国内での取締が進む中、国外に亡命して拠点を築くため、ハイジャックを計画しました。
ところが、3月15日に、赤軍派議長の塩見孝也が逮捕されたため、メンバーの田宮高麿らは、ハイジャック計画をすすめることにしますが、その予定日だった3月27日に、メンバーが遅れてしまい、3月31日に変更されます。
メンバーは、羽田空港発板付空港(現:福岡空港)行き日本航空351便に乗り込みました。当時は検査が厳しくなく、持ち込んだ日本刀や拳銃、爆弾らしきものを見せて(実は偽物だった)、乗客らを脅して拘束。操縦席に入り込んで、航空機関士も拘束し、機長と副操縦士に対し、北朝鮮の平壌へ向かうよう指示します。
機長は、国内線なので、平壌まで行く燃料がない、と説明。給油のために板付空港に向かいます(実は燃料は余裕を持たせてあるため、平壌に行くことは可能だった)。
警察や自衛隊は離陸させないように妨害を行いますが、赤軍派の怒りを買います。機長は女性や子供の解放を条件に出して、23人が解放されます。その後、離陸して朝鮮半島へ向かいますが、この時韓国政府と協力し、ソウルを平壌に見せかける工作を準備。現れた戦闘機の指示に従い金浦空港に着陸。韓国兵が北朝鮮兵の格好で現れるなど偽装しますが、赤軍派にバレてしまいます(米国の旅客機が止まっていたのに気づいたから、現れた男が犯人の北朝鮮に関する質問に答えられなかった、金日成の写真を用意出来なかった、などの説があります)。
赤軍派は、離陸を要求するが、韓国側がエンジンスターターの提供を拒否したため、離陸できず、事態は膠着。韓国側の強行突入を抑え、ソ連や赤十字を通じて、北朝鮮政府と交渉し、平壌へ移動した場合の人質の保護を求め、北朝鮮も了承。これをうけて韓国政府を説得し、さらに韓国側とともに赤軍派と交渉するため、山村新治郎運輸政務次官らも到着。
4月3日、山村次官は、乗客の身代わりとして自ら人質になると条件を出し、日本社会党の阿部助哉衆議院議員がその身元を保証したため、赤軍派も了承。
乗客を降ろし、山村次官を乗せて北朝鮮へ向かいました。具体的な地図がなく、無線の指示もなかったため、平壌国際空港ではなく、美林飛行場跡地に着陸しました。乗員と山村次官の身柄は北朝鮮当局に確保され、犯人は投降しますが、北朝鮮が一旦、人質だった乗員らの身柄返還をごねますが、よど号で無事帰国しました。
犯人らは北朝鮮で歓待されるも、当然、赤軍派の拠点づくりにはならず、日本への無罪帰国もかなわず、柴田泰弘が日本への密入国後に逮捕、田中義三がカンボジアで逮捕されて、両者は日本で服役、病死。吉田金太郎、岡本武、田宮高麿は、北朝鮮で死亡したとされ、のこり4人が北朝鮮に残っているといいます。
自ら人質となって名を上げた山村新治郎は、のち、自民党訪朝団の一員として北朝鮮に行く前日、次女に殺害されるという事件で死亡しました。

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