1935年
吉田巌窟王が出獄。再審請求がはじまる

日本司法史上でも特に有名な冤罪事件が、この吉田巌窟王事件。
きっかけは、1913年(大正2年)8月13日に起こった強盗殺人事件。犯人はすぐに逮捕されますが、その際に犯行を行った二人が、刑を軽くしようと主犯に吉田石松の名を出し、警察は彼を逮捕。自供しなかったため、拷問にかけますが、それでも認めませんでした。にもかかわらず、犯行を行った二人の自供を認めて、吉田は無期懲役となり、収監されました。
彼は獄中でも無実を訴え、暴れるなどしたために、しばしば看守らから暴行を受け、さらに網走刑務所、秋田刑務所を転々とします。秋田刑務所の所長が吉田の態度に不審を感じ再調査。これが冤罪だと気づき、異例の仮釈放の手続きを行い、再審請求を勧めます。吉田は23年ぶりに出獄し再審請求。これは却下されますが、都新聞の記者の協力で犯行を行った二人(仮釈放されていた)を探し出し、謝罪文を書かせます。これを元に再審を請求。
一方、記者は、彼を「今様巌窟王」と紹介する記事を書きました。巌窟王とはアレクサンドル・デュマ・ペールの小説『モンテ・クリスト伯』のこと(※)。再審請求は戦争をまたいで4回も却下されますが、1958年、法務省へ直訴に行った際に、話を聞いた幹部職員が日本弁護士連合会人権擁護部に連絡。これがきっかけで再び注目を浴び、国会でも取り上げられた結果、5回目の再審請求が通り、さらに検察の異議申立ては新法によるもので、旧法によるべきだとして、裁判が開始。1963年2月28日、名古屋高裁で無罪判決。裁判長が吉田を巌窟王になぞらえ、「吉田翁」と呼びかけて謝罪しました。
判決から9ヶ月後の同年12月1日、吉田石松は老衰により亡くなりました。享年84歳。
再審が認められない一方で、仮出獄や弁護士会への連絡、旧法による再審など司法関係者による尽力もあった異例の事件でした。

※『モンテ・クリスト伯』は、船乗りが政治的陰謀に巻き込まれて孤島の監獄に送られ、そこで知り合った神父から真相と財宝の在処を教えられ、脱獄後その財宝で貴族モンテ・クリスト伯と名乗り、自分を陥れた権力者に復讐するストーリー。黒岩涙香が翻案して『史外史伝巌窟王』として発表。一般にも有名な作品でした。

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