618年
隋が滅亡(義寧2年/武徳元年5月20日)
この日、李淵が隋の恭帝楊侑から帝位を禅譲されて皇帝に即位。唐を建国します。
李淵は、北周の唐国公李昞の子。名門隴西李氏の出身で、隋の初代文帝の皇后、独孤伽羅は叔母でした(※1)。この縁で文帝に可愛がられ出世していきます。
文帝の跡を継いだ煬帝は、3度にわたり大規模な高句麗遠征を行いますが、失敗に終わり、国中に反乱が勃発しました。
李淵は弘化留守として関右の諸軍を指揮し、度重なる反乱に対応します。また北の突厥の侵攻を迎え撃つなどして617年、太原留守に任ぜられました。しかしもはや隋王朝に見切りをつけ、兵を率いて南下。すでに煬帝は反乱を恐れて江南に逃げ、世情から目を背けていたため、11月に帝都の大興城(長安)を占領すると、煬帝を太上皇として代王楊侑を擁立し即位させます(恭帝)。
4月10日、煬帝が宇文化及・宇文智及兄弟(※2)に殺され、その情報が伝わると、李淵は恭帝から禅譲を受けるという形で即位し、唐を建国しました。
※1:独孤氏は、匈奴の中心部族である屠各種の一門で、五胡十六国時代に力を得て、隋唐時代には有力貴族であった。
※2:宇文氏は、鮮卑系の有力氏族。北魏時代に置かれた武川鎮の軍閥として、のちに北周王朝を築いたこともあり、北朝から隋唐にかけて勢力を持った。隴西李氏、独孤氏、宇文氏いずれも、武川鎮軍閥(関隴貴族集団)の有力氏族。
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