589年
隋が中国を統一する(禎明3年/開皇9年1月12日)

古代中国では、秦による統一後、前漢・新・後漢と続きますが、184年の黄巾の乱による群雄割拠時代以来400年間、西晋が短期間統一していた時代(呉の滅亡の280年から304年の匈奴の前趙政権まで)を除き、分裂状態にありました。
分裂はやがて南北朝に収束していきますが、北周の第三代皇帝武帝の時に北斉を滅ぼして華北を統一し、すでに衰退しつつあった南朝の陳も視野に入れて、統一間近になっていました。
しかし武帝が亡くなると、次の宣帝は暗愚の皇帝で、上柱国・大司馬・隋国公の楊堅の娘麗華が産んだ幼い太子(静帝)に譲位して政務を放棄、酒色にふけって580年に早死してしまいます。楊堅は摂政となって国政を掌握。北朝諸王朝の有力集団だった武川鎮軍閥を力で抑えこみ、隋王となり、581年に静帝から「禅譲」を受けて皇帝に即位し隋を建国しました。
楊堅は、北周の皇族、宇文一族を皆殺しにし、大興(後の長安)を都として定め、長城を補修して北方の突厥に備えつつ、南方侵攻を準備。587年には北朝の傀儡だったミニ国家「後梁」を「廃止」。
588年、陳への遠征軍(司令官は楊広(後の煬帝))を派遣します。総兵力51万8千というおおげさなほどの大軍で、陳はあっけなく滅亡。陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れている所を捕らえられました。
ここに中国は再び統一されました。もっとも、その隋もたった2代で滅び、同じ北方系の唐が成立することになります。

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